(c)1991 Video Mercury Film
晩餐会で一晩を明かした後、屋敷から出られなくなってしまう人々。
すべての登場人物から、「出る」という概念がすっぽりと抜け落ちてしまっている(屋敷の外にいる警官たちも、彼らを助けに屋敷に「入る」ことができない)。なぜかはわからない。しかし現実に人々は出れない(入れない)。別の場面で、ご丁寧に教会からも出れなくなる。
屋敷の主人が使用人の名を呼ぶ様子が二度にわたって示される。晩餐が始まり、主人は乾杯の挨拶を二度繰り返す(二度目の挨拶後、主人はなぜか戸惑った様子を見せる。その理由が示されることもない)。これらの繰り返しは現実ではありえない。しかし映画の中では実際に起こっていることだ。
熊と羊が屋敷を徘徊している。なぜ徘徊しているのか説明はない。
しかし実際に動物たちは屋敷を歩き回っている。
目の前で確かに何事かが起こっている。しかし、この映画の中ではそれらのできごとがなぜ起きたのかという、できごとの意味や背景が完全に欠落しているのだ。
ひとまず理解不能。
真夜中に手首が彷徨うというシーンがある(そういうシーンが2回ある。回数に意味はないと思うが)。
現実にそんなことはありえない。それを目撃するのはたったひとりの女性なので、彷徨う手首は彼女の幻覚なのだろう。幻覚だとわかればうっちゃっておけばよろしい。しかし彼女は恐怖に顔をひきつらせる。手首に確かな肉感があるからだ。だからブロンズ像やナイフで手首を破壊しにかかる。
この女性と手首の関係は、自分と映画の関係と同じではないかと思い当たる。
目の前でスクリーンに映っているものは幻覚だ。が、観ている最中は確かな現実感をもった何者かなのだ。
屋敷から出れなくなった人々は、それが幻覚だということがわかっていたのかもしれない。でもなぜかはわからないが「出れない」がリアルとなってしまったのだ。観ているわたしも、そんな彼らの陥った状況を「映画だから=幻覚だから」とうっちゃることができず、彼らののっぴきならない状況に否応なく引きずり込まれていくのだ。
理解は不要だ。わたしはただこの映画に巻き込まれてゆくしかない。それは予期せぬものを迎える幸せだ。
『皆殺しの天使』
監督:ルイス・ブニュエル
出演:シルビア・ピナル、エンリケ・ランバル、ジャクリーヌ・アンデレ
製作年:1962年
制作国:メキシコ
上映時間:94分
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