館長
そうだ!仙台に映画館をつくろう!
職場と家以外にも安らげて語り合える場。知的・感覚的に遊べる場。そんな空間が生まれ故郷にあったら最高だな、と思い立ったのが去年の年末。
そしてtrancinemaという団体を立ち上げたのが今年の3月。
以来、シネマワークショップと上映会を通じて仙台の皆様に「思い」を伝え続ける日々。
trancinemaは「光と影の芸術を分かち合う」場の提供を通じて、そこに訪れる人々から日本全国に、いや世界に平和な心が広がることを目指して走り続けます。
不惑をとうに通り過ぎ、ぼーっとしてるとあっという間に還暦を迎える危険がある年齢にさしかかっている私ですが、遊び心と子供の心を失わず、関わっていただく方々が「歓び」に包まれることを信条に、歩み続けて行きます。
とら猫 aka BadCats
自分の青春時代はホラー映画と共にありました。
すべての始まりは『サスペリア』。子供の頃、休日お昼の時間帯にテレビ東京でひっそりと放映されていたこの映画こそ、自分の内なる嗜好性に気づかせてくれたホラー原体験。
やがてレンタルビデオ文化が花開く頃には、個人経営の街の小さなビデオショップに足しげく通い、今でいうニートにヒッピーを振りかけたような、見るからに怪しいが映画のことにはやたら詳しい店番の兄ちゃんが薦めてくるホラー映画をかたっぱしから見まくるように。同時にホラーの枠外へと映画的視野も広げていったのであります。
悲しいかな、ホラーというジャンルは基本的には忌み嫌われ、理不尽なバッシングを浴びることも多い永遠のスケープゴート。公開は一部のミニシアターに限られ、大半の作品は日の目を見ることもなく、ビデオスルーされたら御の字、たまさかシネコンで上映されたかと思えば、血しぶきのもっとも似合わない早朝とかいう嫌がらせみたいな時間帯だったりと、肩身の狭い思いを強いられています。
けどね、ホラーにも色々あるのです。
少なくともその多様性は、ホラーという一言で十把一絡げにしてしまうのは勿体ないほど広漠たるもの。玉石混交の度合いもハンパではなく、ズブの素人が酔っ払って作ったとしか思えないIQの低い駄作が何食わぬ顔で転がっているだけに、その中から奇跡のような一本にめぐり会えたときの感動はひとしおだったりします。
そういうわけでこのレビューでは、ホラー映画だからという理由だけで無視してしまうには惜しすぎる、キラリと光る何かを持った作品を中心に紹介していこうかと。
ホラーファンの裾野が少しでも広がることを願って。
昭和モダ子
私にとって映画を見ることは、体験と言っても過言ではありません。外国、異次元の世界、誰かの頭の中。
私の映画鑑賞の基本スタイルは、人間観察ですが、それは、出演している人というよりは、監督の頭の中を観察しているような感じです。
その人が、人間を、動物を、植物を、静物をどのように捉えているのか。何を以て喜びとし、何を以て悲しみとするのか。どんな表情に、意味を見出すのか。
映画を観るときは、ワクワクして、同時にひと時も見逃すまいとドキドキもしています。そのドキドキは、これでもかとワクワクを増幅してくれるのです。
映画を愛する要素として、映画館という場所も欠かせません。
ちょうどいい目線の高さに、うまい具合に視野を覆うスクリーンがあって、まるで自分がその中に入っているかのような感覚に陥ります。
非常灯さえ消灯して、この時間はただスクリーンに映るものと対峙しろと言わんばかりの諸行。脱帽です。
主題歌が終わった後には軽いタッチのピアノの楽曲が流れてクローズ。私たちは、あの長いエンドロールで、少しずつ自分の日常に戻っていきます。寂しいような、安心するようなキモチを抱えながら。
自分の日常と、未知の日常を繋げるタイムマシン。それが私にとっての映画なのです。
タイムマシンに乗って、どんな体験をしたか、あなたと共有したい。そんな気持ちでレビューを書いてます。
受け取っていただけたら、嬉しいです。
大久保渉
イーストウッド監督でいったら、『チェンジリング』よりも『グラントリノ』が、『ペイルライダー』よりも『センチメンタル・アドベンチャー』が好きです。
スピルバーグ監督でいったら、『ジェラシック・パーク』よりも『シンドラーのリスト』が、『インディ・ジョーンズ』よりも『オールウェイズ』が好きです。
スコセッシ監督でいったら、『タクシードライバー』よりも『アリスの恋』が、『グッドフェローズ』よりも『キング・オブ・コメディ』が好きです。
自己紹介もそこそこに、いつまでもそんなことばかりを言ってはいられないのですが、マレーシアでいったらヤスミン監督が、インドでいったらラージクマール監督が、イランでいったらマジッド監督が、タジキスタンでいったらバフティ監督が好きです。
ここまで、「ごちゃごちゃ映画通ぶったことを言いやがって」と思われてしまっていたら大変失礼いたしました。ただ、どうしても映画が好きなものでして、どうかご容赦いただきたくお願い申し上げます。
個人的には、もちろんバランスの問題なのですが、映画を執拗に人に押し付けようとしてくる人はあまり好きではありません。こんなにも世の中には映画がたくさんあって、これからもどんどんつくられていくのだから、それぞれが好きな映画を好きなだけ観ていけばいいのではないかと思っております。
黒澤みた?成瀬みた?小津みた?それもOKです。
ただ一方で、松居大悟キテるよね?破れタイツの新作まだかな?とかもOKだと思います。
もうこれ以上ないほどに素晴らしい作品があるにも関わらず、でももっと好きになっちゃう作品に出会える。そんな自由で無限なところがあるからこそ、私は「映画」が好きなのです。
なんでもいいじゃん、熱さえあれば。そんなこんなで、映画のことを書いていきたいと思います。
うたたね むにゃたろう
映画を観たあと、僕はいつも“もにょもにょ”します。それはすごくもどかしい気持ちです。せっかく一つの作品と出会ったのに、そこから湧き上がったはずの自分の感情の正体がよくわからないのです。宙ぶらりんなまま、まごついていると、“もにょもにょ”の中身はますます見えづらくなって、手の届かない自分の奥深くへと逃げていってしまいます。これはすごく気持ち悪い。映画を観る度に“もにょもにょ”は新たに生まれ続けるので、放置していると不純物が身体の中にどんどん溜まっていくような不健康さがあります。
この“もにょもにょ”を解消するには、やはり言葉が一番有効です。感想を文章に起こしてみたり、誰かと率直に対話をしてみたり、ぽつぽつとメモ書きのようなつぶやきをしてみたり……、「映画を観る」ということは、この“もにょもにょ”と向き合うことでもあるのだと思います。成仏できなかった魂のように暗闇を彷徨う“もにょもにょ”を、どうにかして捕まえて明るい場所に解き放ってやる、そんな作業です。そうした時に初めて、自分と映画の出会いがソリッドに定着する気がします。
僕は高校時代に出会った1本のフランス映画について、ずっと“もにょもにょ”し続けていました。とにかく大好きで、こんなによくできた作品は他にない!と確信しているのに、それが何故なのか他人はもちろん自分にも説明できないのです。このまま大人になることは出来ないと思い、大学時代にその作品を何十回も観て、”もにょもにょ”の正体を明らかにしました。
僕は映画ファンですが、オタクでもミーハーでもありません。沢山映画を観ても、タイトルや監督・俳優の名前をわりとすぐ忘れてしまいます。でも、映画と出会い、”もにょもにょ”に向き合って言葉にする喜びを知っています。たとえ映画に詳しくなくても、一期一会の「映画と私」という関係を大切にする人なら誰もが映画ファンです。映画と“もにょもにょ”する楽しさを、ライフワークとして享受していきたいと思います。
凛
“映画を観ていこう!”と、そう心に決めて早十年。
映画を夢見て、映画に支えられ、そして映画と共に歩んだ、振り返ればそんな十年であったと思います。映画がなければ、私の人生を振り返った時、その大部分が指の間から零れ落ちていってしまいます。いままでも、そして、きっとこれからもそうであってほしいと願っています。映画好きなら誰しもが思うであろうーあの日、あの時、あの場所でー、ただゝ映画を愛し、スクリーンを見上げていた瞬間。映画はいつも私に夢を与え、そして映画のように、私たちの生きるこの人生も又美しいのだということを教えてくれました。
好きな映画は、主に古典映画です。
独表現主義映画に始まり、仏映画の詩的リアリズム、ネオレアリズモ、フィルム・ノワール、そして1930~50年のアメリカ映画が大好きです。作家主義。敬愛する監督は、アルノー・デプレシャン。生涯の一本は『秋津温泉』。
私は小さな一映画好きに過ぎませんが、今度は書くことによって映画と人との架け橋となれる役割を担えるのでしたら、そのことを本当に嬉しく思います。皆様がいつもすてきな映画との邂逅に恵まれますように。
いついつまでも、映画の夢追い人でありたいと、そう願っています。
rinko
映画を見ることと、旅行が大好きです。
考えてみると、映画に影響されて旅行先決めてることも結構あるなぁと気づきました。
「ローマの休日」を見てローマへ…
「猿の惑星」を見てレイクパウエルへ…
「敦煌」を見て中国莫高窟へ…
「シンドラーのリスト」を見てポーランドのアウシュビッツへ…
「きっとうまくいく」「命ある限り」を見てインドのラダックにあるパンゴンツォへ…
好きな映画のジャンルは、切ない映画とサスペンス、そしてインド映画!
色んな人のおすすめの映画を聞いて素敵な映画に出会いたいです。
宜しくお願いします。
Kana
映画に「心を動かされる」のが好きです。
観終わった後に、何度も思い出して反芻してしまうような映画に出会えるとうれしいです。
poco
映画を観るのは物語、フィクション好きだからだ。映画に限らず海外ドラマ好きで、小学生からテレビっ子だった。名古屋出身だが、その昔、専門チャンネル等ない頃は地方TV局の深夜時間帯は海外ドラマが幅を利かせていた。そこにレンタルビデオ、NHKBSが加わり、結局CSに加入、現在はケーブルTVで視聴している。地域は主にアメリカ、時にイギリス、ちなみに日本も時折は観る。端緒は「スタートレック」なのでSF好きだが、コメディ、アクション、歴史ものも含む群像劇も好きだ。映画も同様に、好き嫌いは少ないと思うが、恋愛だけの作品は現実感を持てず観ていない。映像鑑賞にかける時間は昔と変わりないが、最近は映画館で多くの時間を割いている。ドラマはテレビでOKだが、映画はテレビだと集中できなくなった。だから映画館は必要不可欠だが、最近、単館系映画館の閉鎖が続き、上映の多様性低下は危惧するところであり、自分で映画館を作らねばと思うようになった。
レビュー的なものは、ありきたりだが、備忘録としてSNS上から始めた。映画関連講座の受講、上映イベントを経験しながら、もっと多くの目に触れること考え始めた頃、受講したライター講座に「ことばの映画館」という素人ライターの集まる雑誌を出す受講生達がいて、そこに加わった。映画は一旦上映されれば、観客のものになる。そして観客各々の経験値や知識により、頭の中の引き出しに何があるかで、捉え方、感じ方が違ってくる。ただ、作品には直接主題を提示せず、観客に考えさせることも少なくない。だから、自分の引き出しだけは限界があり他人の見解も必要になる。ここにレビューの存在意義がある。こうして読み解いた作品は自分の引き出し入り、その後の読み解きの材料となる。
文章でバレバレだろうが、私は読書家ではない。映画はフィクションが好きだが本はノンフィクションを読む。今回、縁あって書かせて頂く場を得られたことが素直に嬉しい。
kiki aoki
なぜ¬¬映画を見るのかと聞かれると、答えに窮する。多分、見なくても生きていけるし、楽しいことは他にもいっぱいある。それでも映画を見るのは、他人の表現の結晶である映画によって自分の表現が可能になるからだ。映画を見ることにより知らないことを知り、気づかないことに気づき、そうやって自分の中で色々なものが蓄積され、できることが増えた。できることが増えると、見れる映画の種類も増えた。それを繰り返してどうなったかというと、自分というアイデンティティの形成に繋がった、と思う。だから私にとって映画とは非常にパーソナルなものであったし、これからもおそらくそうだろう。
なぜ映画について書きたいのかと聞かれると、やっぱり答えに窮する。一番の理由は書いていないとすぐに忘れてしまうからだと思う。観た後にきちんと考えないと、観たことすら忘れてしまいそうになる。それはやっぱりもったいないから、走り書きでもまとまっていなくてもいいから見た後の感想や考えを書こうと決めている。もうひとつは、映画鑑賞をただ単に消費活動で終わらせたくないという願望がどうしても存在しているというのもある。自分の中で終わらせるよりも、他人に共有したい。共有することによって消費活動から抜け出せているかはわからないが、そこから交流とか対話とかが生まれたのなら、すごく嬉しいと感じる。
なぜ書いたものを公開しているのかと聞かれると、それは映画を見て欲しいからだと答える。映画自体多くの見方を持っているように、もっと多くの見方で映画を見ることができる。映画鑑賞がパーソナルな行為であれば、その見方は観客の数だけあるはずだ。見方が増えると映画を見る範囲が増えるという信念を持っているので、自分の見方を共有することによって映画を見る人がちょっとでも増えることを淡く期待している。